世の出来事はおおよそ因果律に従って生起する。原因があって結果が生じる、これが『ものの道理』であり『理の当然』。人類の進歩は如何にしてものの因果関係を見抜き、利用するかに掛かっていたといって良いだろう。
翻って、では人間の意志は何に根拠づけられるかというと、これは因果律からは生じ得ない。『自由』という選択の余地が与えられる場面においてのみ、意志に基づく行動が可能となる。偏差値35の「落ちこぼれ」は有名大学に合格できる筈がないのは『理の当然』であるが、一念発起して頑張れば『奇跡』は起こる。このとき働いていたのは、「この学力では無理」という道理を覆そうという意志の力であり、そう考える自由を与えられていることを基盤にしている。
もうちょっと言えば『勉強すれば成績は上がる』という、別の『因果関係』を利用して、「成績が悪いと受からない」という道理を覆したということになるのだろうが。
さて、かくのごとく世界は因果律に従って動く。しかしあとの例で挙げたように、自由がなければ、一発大逆転の夢もなく、したがって感動もなく、世界はいたって楽しくないものになってしまう。いわゆる『頭のいい人』は、原因と結果との関連をよく見通して、功利的に立ち回って行くことができるかもしれない。しかし、たとえば年齢、年収、居住地、持ち家とその同居人etc.からはじき出された何人かの候補の中から一生の伴侶となる配偶者を決めるといったごときchoiceが、本当に選んだと言うに値する行為といえるのか?一事が万事そのような『押しつけ、制限された中での選択』を重ねて行く人生、すなわち 因果関係から予測される結果として考えられるいくつかの選択枝の中から、その中で最良なものを選びとると言う人生に果たして本当の意味での感動はあるのか?
ヒトの幸福は、意志を以てこの世界に働きかけることができる点であり、ヒトの不幸は、意志というものが、この世界のすべてを生起させて行くところの原理、すなわち因果律によって基礎づけられるものではないという点である様に思われる。
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